『精獣招喚!』
少し前までは逢う事が怖くて、すべてを閉ざしていたのに
今は一刻も早く彼女に逢いたくて、精獣の背に乗り今にも雨が降り出しそうな黒い空を翔る。
精霊の森の入り口に着き森に入ろうとした所で、ぽつりと頬に雨粒が落ちてきた。
まるでそれは彼女が流している涙の様だった。
また、彼女は一人で泣いているのだろうか?
そう思って空を見上げた時、奥の方でがさり、と木々が動く音が聞こえた。
いた…!
木にもたれ、雨の降り出した空をぼんやりと眺めている彼女の姿がそこにある。
『ウミ!』
思わず叫んだ私の声に驚き、彼女が振り返る。
そして私の姿を見ると、逃げる様に森の奥へと駆けていった。
彼女の姿を見失うまいと、追いかける。
こういう時は本当にこの小さい身体は不便だ。
でも、そんな事を考えている暇はない。
生い茂った木々や頬を打つ雨に視界を阻まれても
前を駆ける彼女の青い髪は晴天のセフィーロの空のように鮮やかだった。
―もう二度と見失う訳にはいかない
やっとの事で彼女の手を掴んだ、と思った瞬間バランスを崩し彼女と共に倒れ込む。
走り続けた息苦しさと倒れた痛みを抑え、思わず閉じてしまった目を開ける。
腕の中で、ずっと焦がれていた彼女が私を見上げていた。
『どう…して?』
彼女は最後に見た時と同じ様に、泣きはらした目を私に向ける。
頬を伝う雫は、涙と雨が混じっていた。
顔も髪も服も、転んだせいで泥だらけになっていた。
『なぜ逃げる?』
抱き起こし、彼女の頬に付いた雫と泥を己のローブで拭うと、びくりと彼女は震えた。
彼女にもう逃げようとする様子はなく、ただ何も言わず静かに私を見つめていた。
『私が嫌いならそう言えばいい。それならそれでも構わない』
そう言うと、哀しそうに彼女の瞳が揺れた。
―ただ私の気持ちはそれでも変わらないだろうから、ずっとお前だけを想い続けるだろう。
それだけは許して欲しい。
その代わり、お前が嫌だと言う事は何一つしないと誓おう。
私の声が聞きたくないと言うのなら、お前の前では話さない。
私の姿が見たくないと言うのなら、姿が見えない場所へ消えよう。
だから、お前を想う事だけ許して欲しい。
『…だがもし嫌いではないのなら、同情でも憐みでも構わない。
私の傍にいて欲しい。
私はお前を愛している。お前と、ずっと共にいたい』
いつの間にか、雨は止んでいた。
それなのに、彼女の頬を伝う雫は止まなかった。
拭っても拭っても、伝う雫が私のローブに染みを作っていく。
『…ウミ?』
返事をしない彼女の瞳を覗き込む。
『……ぃ…いの?』
消えそうな声で彼女が呟いた。
『…クレフの、傍に…いて……いい、の?
私が、傍にいて…クレフの、負担になって……ない?』
聞き返そうとした時にもう一度呟いた彼女の言葉は、信じられないくらい嬉しい言葉だった。
彼女の身体を強く抱きしめる。
『ああ。ウミが嫌でなければ、ずっといて欲しい。…いや、私はウミが嫌だと言っても傍にいたい。いさせて欲しい』
もう離したくない。いや、もう離さない。
一目見てどれだけ逢いたかったかを嫌と言う程に自覚した。
私には、お前が必要だ。
抱きしめる手に力を込めた時、彼女の手が私の背中にそろりと回った。
『私、私もずっと傍にいる。クレフが嫌って言っても離れてなんかやらないんだから!』
まだ啜り泣いている彼女の顔が見たくて、身を離す。恥ずかしそうにこちらを向く彼女の顔は堪らなく愛おしくて、
なぜこんなに愛しい彼女と離れていられたのかと不思議に思う。
お互いの目が合うと、吸い寄せられるように顔が近づく。
軽くついばむ様に唇と唇が触れ、触れた瞬間にまた離れた。
涙に濡れた海の顔と泥だらけの己の顔。
お互いの顔を見て笑みが零れる。
そしてまた、唇が触れる。
何度も何度も、お互いの存在を確認する様に繰り返した。
『……っ。んっ。…』
彼女の甘い声で我に返る。
これ以上彼女に触れていると、止まらなくなりそうだ…
全く、と己を嘲笑う。
彼女と自分の姿を見やれば、雨に濡れた地面に座ったまま、
服も身体も雨に濡れ、更に転んで泥だらけ。
そんな姿で抱き合っていた。
真っ直ぐに己を見ている彼女の髪を梳いて微笑む。
『さぁ、城へ帰ろう。このままでは風邪をひくぞ』
その言葉に彼女は笑顔を返してくれた。
濡れた衣服が冷たく、身体に重く張り付くのに、
彼女が触れた手も、胸の中もどうしようもなく温かかった。
森の入り口まで、手を繋いで二人で寄り添うように歩いた。
こんな風に二人で歩いたのはどれくらいぶりだろうか。
いつのまにか朝から空を覆っていた黒い雲は消え、青い空が広がっていた。
まるで二人の心の様に澄み渡る青い空。
そして、遥か空の向こうには、きらきらと輝く虹色の架け橋。
『綺麗…。』
そう言って私を振り返った彼女が、こちらを見て面白そうに笑う。
『なんだ?』
『だって、クレフったら顔、泥だらけなんだもん。』
ポケットからハンカチを取り出し、私の顔を拭いてくれた。
無邪気に笑う彼女の頬にはもう涙の後は無い。
『そういうお前も、その格好はなんだ』
『それも、そうね。』
お互いに、泥だらけの姿を見て、
二人で、久しぶりに力いっぱい笑った。
*****
城に戻り自室へ向かおうとした所で、プレセアに叫ばれた。
『導師!何て格好してるんですか!?ウミも!』
『すまん、プレセア。ウミを風呂へ入れてやってくれないか?』
驚いた顔を向けたプレセアだったが、すぐさまウミを連れて行ってくれた。
『…わかりました。さ、ウミこっちへ』
こちらをちらりと見ながらプレセアについて行く海に声をかける。
『ウミ、後で私の部屋へ来てくれないか?』
海は笑顔で頷いて、少し前を歩くプレセアに追いつく為足早に去って行った。
それを見送ってから自分も部屋へ戻り、風呂で身体を温め真新しいローブに着替えた。
椅子に身体を預け、部屋を見渡す。
山積みにされた書類も、並べられた書物も
朝と何も変わらない筈なのに、温かく色づいている様だった。
自然と笑みが零れそうになる。
だが喜んでるばかりではいられない。
…彼女が応えてくれた嬉しさで忘れていたが、
まだ彼女に何一つ謝ってもいない。
彼女の涙の理由も聞いていなかった。
コン、コン。
遠慮がちなノックが響き、扉が開く。
『クレフ?』
こちらを覗いて声をかけながら海が入ってきた。
『ウミ、大丈夫か?お茶を入れるから、そこで待っていてくれ』
彼女をソファへ促し、お茶の用意をする。
彼女は静かに頷き、ソファへ座る。
彼女が好きだと言っていた紅茶を入れ、彼女へゆっくりと近づく。
カップを彼女へ渡し、隣へ腰掛けた。
『ありがとう』と笑顔で受け取り紅茶を飲む彼女は
朝までの、色を失った様に見えた自室にいとも簡単に明るく華を咲かせた存在。
彼女がここにいるという事が久しぶりな筈なのにとても自然に思えて、彼女の髪を優しく梳いた。
そしてまだ少し湿っているその青い髪を一房を掴み、それに口付ける。
『クレフ…?』
私の行動に驚き、頬を染める。
さらりと流れる彼女の髪から手を離し、彼女の瞳を見つめ、ゆっくりと頭を下げた。
『ウミ、すまなかった。私はお前を傷つけた。
仕事ばかりで約束を破り、我慢させ、寂しい思いばかりさせた。本当にすまないと思っている。
私は、どうすればお前に許してもらえるだろうか?』
彼女はカップをテーブルに置き、私の方へ向き直す。
『ううん、私の方こそごめんなさい。
クレフの仕事が忙しいの、知ってたのに。ううん、知ってるつもりだった。
でも全然解ってなかったの。』
彼女がそっと私の手に触れる。
温かくて柔らかい感触に顔を上げると、彼女と目が合う。
その瞳は不安に揺らいでいる様だった。
『少し前に、大きな会議があったでしょう?
オートザムや、チゼータや、ファーレンや色んな国の人が来て』
唐突に言われ、数ヶ月前の記憶を辿る。
『ああ。それが、どうかしたのか?』
『その時にね、ちょっとだけ覗きに行ったの。
クレフが忙しくて全然逢えないから、寂しくて。光と風と一緒にこっそり入ったの。
覗いた時にね、クレフが丁度話をしてたわ。
その姿を見た時にクレフが全然知らない人みたいに見えた。
堂々としてて、立派で、大きかった。
クレフが忙しいのは、国の重責を背負ってるからだって、
解ってたつもりで全然解ってなかったんだってその時思ったの』
いつの間にか彼女は俯いていて、声が少し震えている。
『あんなにクレフはすごいんだって。
セフィーロ最高位の魔導師だって、全然ちゃんと解ってなかったんだって。
そしたら自分がちっぽけに見えて、クレフとは釣り合わないって…。
私はクレフの負担にしかならないと思って。怖くて、怖くて…』
『そんな事はない。』
強い口調で否定しても、彼女は首を横に振って言葉を続ける。
『それからも、クレフは忙しくて、逢えなくて。
逢えなくてもクレフは全然変わらなくて、私ばっかりが寂しいんだって、
私ばっかりが我侭で、子供なんだって。
そう思ったらもうどうすればいいのかわからなくなって……』
とうとう泣き出してしまった彼女を抱きしめる。
こんなにも彼女を傷つけるまで、私はなぜ気付かなかったのだろう。
『でも、約束を破られるよりも、約束出来ないって思ったらそっちの方が辛くて。
それならもう、逢わない方がいいのかと思って。私…』
ただでさえ住む世界の違う彼女が不安になる事くらい容易に想像出来た筈なのに、
彼女の明るさも優しさも素直さもその存在のすべてが心地良くて、
いてくれる事が自然になってしまって、いなくなってからしか気付けなかった。
『私が仕事に専念出来るのも、ウミがいてくれるおかげだ。
それに、私はそんなに立派ではない。
ウミに甘えてばかりで、そんなに不安にさせていた事にも気付かない程の愚か者だ。
お前に別れると言われた時も、どうすればいいのか判らなくて、
何と言えば引き留められるのか判らなくて、結局何も言えなかった…』
失うことが怖いくせに、現実を受け止められなくて逃げていたのは私だ。
そしてそのせいで余計に彼女を傷つけた。
『本当にすまなかった。私は、どうすればいい?
どうすれば、許してくれるだろうか?』
少し身を離し彼女の涙を拭う。
その動きを、じっと彼女は見つめていた。
その深い蒼の瞳は、もう揺らいでいない。真っ直ぐこちらを見つめていた。
『じゃあ、明日一緒にいてくれる?』
あまりに可愛い過ぎるお願いに、笑みが零れる。
『それだけでいいのか?』
『じゃ、そうね…。どこかに、二人だけで行きたい。素敵な所に案内して』
ゆっくりと、彼女の髪を優しく梳いた。
真っ直ぐなその青は、するりと指の隙間から零れ落ちる。
『わかった。とびきりの場所へ案内しよう』
私の答えに満足したのか、彼女は満面の笑みを浮かべた。
『ねぇ、クレフ。私は貴方が好きよ。ずっと、好き。ずっと傍にいて、いい?』
その真っ直ぐな瞳と同じ様に真っ直ぐな彼女の心。
私も、真っ直ぐに彼女を見つめる。
『私も好きだ。ウミを、愛している。もう…離さない』
傍にいるだけで自然に笑顔になる。
彼女に向き合う時だけは年齢も立場も関係ない、素のままの自分でいる事が出来た。
彼女を失う事は、もう出来ない。
二人の影が再び重なる。
触れ合えば、感じるのは相手への愛おしさだけ。
お互いの温度が上がるのが判る。
優しく、優しく彼女の頬に触れる。
応えるように、彼女が私のローブをそっと握る。
ゆっくりと、唇が重なる。
温かくて、愛おしくて、幸せな時間。
この時間が永遠ならばいいのに…。
そう願っても叶う事はない。
だがきっと、彼女がいればどんな時でも幸せな時間になる。
昨日より今日。今日より明日。
もっともっと幸せになれるから、
「永遠」を過ごすより、「今」の幸せな気持ちをずっと、大切にしよう…。



